第1は農業生産の飽和化です。
速水融の推計(「概説一七―一八世紀」『日本経済史1 経済社会の成立』所収)によれば、実収石高は1700年の3063万石から1730年の3274万石へ211万石増えたものの、17世紀の年間伸び率0.32~0.56%に比べると、0.22%へ低下しています。
耕地面積も1700年の2841千町から1730年の2971一千町へ130千町増加したものの、17世紀の年間伸び率0.26~0.38%に比べると0.15%へほぼ半減しました。
つまり、耕地の拡大と労働集約的・土地節約的進歩で急速に発展してきた集約農業は「17世紀末から18世紀初めのころになると、天井に到達するようになっていた」のです。
第2は気象の悪化です。
18世紀後半は著しい寒冷期となり、大飢饉が連続して発生しました。
1755年の宝暦の飢饉、74年の安永の飢饉、82~87年の天明の飢饉などは、いずれも夏季の気温低下が引き起こした冷害でした。
当時の集約農業技術は、粗放農業技術に比べてかなり高度化しており、通常の気候不順には十分に耐えられる水準にありました。
だが、もともと亜熱帯性の植物である稲を東北地方にまで普及させていましたから、気候が良好な時はともかく、大規模な気候不順が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。
第3は貨幣経済化の急進と限界です。
17世紀末から18世紀初頭にかけて、貨幣経済が全国に浸透すると、それまで自給経済に閉じ込められていた農村部でも、各地の特産物を中心に商品生産が開始され、富裕な農民層が出現してきます。
だが、こうした農村の商業生産化は、年貢収入の停滞や減少、物価の上昇を引き起こして、領主層の財政を悪化させたり、零細農民の一揆を招きました。
一方、都市部、とりわけ江戸では商業経済の急拡大で物価が高騰し、町人の打毀しが起こったため、徳川幕府は強力な物価統制に踏み切り、1724(享保9)年の物価引下げ令、18~24年の株仲間結成の公認など、新たな商業統制に追い込まれていきます。
貨幣経済の波は幕府財政にも波及し、収支を急速に悪化させました。貨幣による出費が年々増える一方で、財源が減少したからです。
18世紀には鉱山からの金銀の採掘量が湧水対応や通気技術の停滞で次第に低下し、19世紀半ばには銅の採掘量も最盛期の3分の1まで落ちました。
また幕府の年貢率も17世紀の六公四民~五公五民から、18世紀には四公六民まで低下しました。その結果、幕府財政は慢性的な赤字に陥りました。
以上のように、貨幣経済は米を基準とする石高経済を越えて、新たな経済構造を作り出しはしましたが、他方では農村の疲弊、階級格差の拡大、飢饉被害の増幅、一揆や打毀しの頻発などを引き起こしたのです。
これら3つの原因が重なって、当時の人口は1730年代から減少し始め、1790年前後には3000万人を割るところまで落ちていきます。
これこそ4番目の人口波動、つまり農業後波の飽和化という、4番めの壁だったのです。
だが、こうした農村の商業生産化は、年貢収入の停滞や減少、物価の上昇を引き起こして、領主層の財政を悪化させたり、零細農民の一揆を招きました。
一方、都市部、とりわけ江戸では商業経済の急拡大で物価が高騰し、町人の打毀しが起こったため、徳川幕府は強力な物価統制に踏み切り、1724(享保9)年の物価引下げ令、18~24年の株仲間結成の公認など、新たな商業統制に追い込まれていきます。
貨幣経済の波は幕府財政にも波及し、収支を急速に悪化させました。貨幣による出費が年々増える一方で、財源が減少したからです。
18世紀には鉱山からの金銀の採掘量が湧水対応や通気技術の停滞で次第に低下し、19世紀半ばには銅の採掘量も最盛期の3分の1まで落ちました。
また幕府の年貢率も17世紀の六公四民~五公五民から、18世紀には四公六民まで低下しました。その結果、幕府財政は慢性的な赤字に陥りました。
以上のように、貨幣経済は米を基準とする石高経済を越えて、新たな経済構造を作り出しはしましたが、他方では農村の疲弊、階級格差の拡大、飢饉被害の増幅、一揆や打毀しの頻発などを引き起こしたのです。
これら3つの原因が重なって、当時の人口は1730年代から減少し始め、1790年前後には3000万人を割るところまで落ちていきます。
これこそ4番目の人口波動、つまり農業後波の飽和化という、4番めの壁だったのです。
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