2016年4月29日金曜日

国風文化の時代

900~1200年の約300年間は、農業前波の停滞期として、政治的には律令国家の崩壊から武家政権の成立に至る移行期でしたが、文化的に見ると、中国文化の影響を脱し、豊穣な国風文化が育まれた時代でした。
宗教では、平安末期には、800年代に中国五台山から伝わっていた念仏三昧法を基に、わが国独自の浄土信仰が生まれ、922年(延喜22年)頃から市井の修行僧・空也が口称念仏を唱えて浄土教を庶民へ広めています。

985年(寛和元年)には、天台宗の僧・源信も『往生要集』を著して、浄土信仰を貴族層へ浸透させ、仏像や仏画、仏教建築などにその影響を残しました。

院政・鎌倉初期に入ると、新興の武士層や農民層の求めに応じて、旧仏教の中から浄土宗や浄土真宗が生まれ、新たに中国から禅宗、つまり臨済宗曹洞宗も輸入されています。

文学では、漢字の音訓を借りた「万葉仮名」を基に、草書体を略した「ひら仮名」や一部を略記した「カタ仮名」が生み出され、さまざまな文学が創作されました。

これを使って、905年(延喜5年)、醍醐天皇の命で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されたほか、竹取物語伊勢物語うつほ物語などの物語文学が隆盛となり、1008年(寛弘五年)頃には紫式部源氏物語を著しています。

日記・随筆でも、935年(承平5年)頃に、土佐の前国司・紀貫之がひら仮名で『土佐日記』を著して日記文学を始めると、蜻蛉日記和泉式部日記更級日記などが続き、996年(長徳2年)頃に清少納言が随筆集『枕草子』を著しています。

院政時代に入ると、今昔物語集宇治拾遺物語古今著聞集など、庶民層向けの説話文学も現れています。

鎌倉初期には、保元の乱を題材とする『保元物語』、平治の乱を描いた『平治物語』、平氏の興亡を綴った『平家物語』などの軍記物が現れたうえ、鴨長明の『方丈記』や藤原定家の『明月記』などの随筆や日記文学も登場しています。

絵画では、平安末期から院政期にかけて、唐絵に対する「やまと絵」が創設され源氏物語絵巻伴大納言絵詞信貴山縁起鳥獣人物戯画の、いわゆる四大絵巻が制作されています。鎌倉初期には、平治の乱を描写した『平治物語絵巻』や『北野天神縁起絵巻』が制作されました。

建築では、平安末期、浄土教の影響を受けて、1053年(天喜元年)に藤原頼通平等院鳳凰堂を建立し、同時期に日野資業法界寺阿弥陀堂を建立しています。仁安3年(1168年)頃には、平清盛厳島神社の大規模な社殿を造営しています。鎌倉初期になると、雄大さや豪放さを特色とする大仏様として、1203年(建仁3年)に東大寺南大門、1200年(正治2年)東大寺開山堂内陣が建てられています。

以上のように、農業前波の停滞期とは、弥生時代以来の大陸文化を吸収し醸成したうえで、独自の国風文化を確立した時代だったといえるでしょう。


 



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2016年4月21日木曜日

農業前波・停滞期の社会とは・・・

農業前波の停滞期は900~1200年の約300年間ですが、歴史学の区分でいえば平安時代中期から鎌倉時代の前期に相当します。

平安時代中期には、894年(寛平6年)に遣唐使を廃止して中国文明の影響を脱し、醍醐天皇(897~930年在位)や村上天皇(946~967年在位)の天皇親政による「延喜・天暦の治」によって律令国家を完成させます。

しかし、飽和化が顕著になるにつれて、939年(天慶2年)には平将門・藤原純友による承平天慶の乱が起こり、1016年(長和5年)に藤原道長によって摂関政治が確立されます。

1051~1062年には東北地方で前九年・後三年の役が起こり、摂関政治が弱体化してくると、1086年(応徳3年)に白河上皇が院政を開始します。

1159年(平治元年)に平治の乱で実権を握った平清盛が、1167年(仁安2年)、太政大臣となって平家政権が成立しますが、清盛没後の1185年(元暦2年:文治元年)、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡します。

1192年(建久3年)、源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、鎌倉時代が始まりましたが、頼朝没後、1203年(建仁3年)に北条時政執権制を開始し、1221年(承久3年)の承久の乱によって鎌倉政権を強化し、1232年(貞永元年)に御成敗式目を制定して武家政権を確立したうえ、1274~1281年の文永・弘安の役で元寇に勝利します。

しかし、1305年(嘉元3年)の嘉元の乱の後、北条一族の内紛によって次第に弱体化していきます。

以上のように、この300年間は天皇親政による律令体制の完成の後、藤原氏による摂関体制、白河上皇による院政、平氏による平家政権、源氏による鎌倉政権、北條氏による執権政権と、政治体制のうえでは激動期となっています。

人口波動という超長期的な視点から見ると、農業前波の人口容量が飽和していく中で、農業生産物やさまざまな資源をいかに再配分するかについて、天皇家、貴族、武士などがさまざまな挑戦を試みた経緯とみることができるでしょう。
 
 
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2016年4月10日日曜日

農業前波はなぜ限界に達したのか?

農業前波の人口容量が限界に達した背景には、さまざまな原因が複雑に絡んでいますが、主なものは次の3です。

第1は、国内の粗放農業技術が、古墳時代以来の急激な発展の後、進歩の度合いを急速に落としたことです。大和朝廷から平安朝廷にいたる統一政権は、あいついで開墾の奨励策を打ち出しましたが、その効果はさほど上がっていません。


当時の技術体系のもとでは、耕地の拡大と土地生産性の上昇がもはや困難になっていました。またこの時期に大陸の唐や宋から導入した技術や制度も、すでに成熟したもので、人口容量を拡大するようなダイナミックな内容を持つものではありませんでした。

第2は、統治体制がさまざまに変容したことです。例えば律令的土地制度の根幹である班田制はほぼ完全に崩壊し、代わって貴族・社寺や富裕農民層の荘園私有が増加して、租税収入が減少しました。さらに班田制と表裏をなす戸籍制度も次第に崩壊し、課役の逃避が常態化しました。

その結果、高度な技術と大量の労働力を駆使して大河川流域の平野を開拓し、排水・灌漑施設を維持していくという農地拡大の基盤が崩れ、大規模な開墾が困難になるとともに、荒廃田を増加させました。

以上の2つが基本ですが、もう1つ、第3の原因として、この時期の末期に始まる貨幣経済がそれまでの社会・経済構造を大きく動揺させたことがあげられます。
平安末期から鎌倉時代になると、各地で定期市が開かれ、物資の輸送も盛んになりました。

さらに日宋貿易で輸入された宋銭が流通し始めると、為替、年貢の銭納、借上(かしあげ=高利貸業者)など、貨幣経済が急速に広がりました。

貨幣の浸透は生産の拡大よりも換金性の拡大に社会の関心を移行させましたから、一時的に人口容量の拡大を阻害することになりました。

これら3つの要因が絡み合った結果、農業前波の人口容量は限界に達し、それに伴って当時の人口を停滞へ追い込んでいったものと思われます。