1人の人間の生存権保障は「原始共産制」が原点である、というF.エンゲルスの主張については、さまざまな角度から批判がされています。
古代社会のモデルとして引用しているL.H.モーガンの社会像が、必ずしも確定されたものではなく、それ以外にもさまざまな社会が存在していたことが、その後の調査・研究によって判明してきたからです。
こうした指摘を受けて、経済人類学者のK.ポランニー(1886~1964)もまた原始共産制を否定し、より広い視点から「互酬制(Reciprocity)」の存在を指摘しています。その論理を要約してみましょう。
●未開人が個人主義者、自然のままの利己主義者、物々交換や交易や取引を行う者、自給自足者であった、という証拠はなかった(P.マリノフスキーとR,トゥルンヴァルトの指摘)。 ●未開人は共産主義的な心理をもっているとする伝説、 つまり、 自己の個人的利害に無であるという想定も疑わしい。「共産主義」のようにみえたのは、生産システムや経済システムが、通常、いかなる個人も飢餓に脅かされないように案配されている事という事実によるものであった。 ●「おおざっぱにいうと、どの時代の人間も大して変わらないように思われるようになったのである。制度を個々別々にではなく、相互関係で捉えてみると、ほとんどの人間が、われわれに大体理解できるような行動様式をとっていることがわかったのである。」 (訳文のまま) ●ある個人が座る、焚火宴での位置、共有資源の取り分などは、彼が狩猟や牧畜や農耕栽培でどのような役割を果たすことになっているかに関わりなく、確保されている。 実例を2、3あげてみよう。 ●カフィール族(ヒンドゥー・クシ山脈南斜面に住む山岳民族)の「クラールランド制度」のもとでは、「窮乏生活はありえず、援助が必要なら誰でも問題なくそれを受けられる」 (L.P.Mair,An African Ponte in the Twentieth Century,1904)。 ●クワキウトゥル・インディアン(北アメリカの北西海岸インディアン)にも「少しでも飢えの危険を増すものはいない」 (E.M.Loeb,The Distribution and Function of Money in Early Society.1936)。 ●「最低生活水準で生活している社会には飢餓はない」 (M.J.Herskovits,The Economic Life of Primitive Peoples,1940)。 ●要するに、共同体全体が飢餓の苦境に陥らなければ、個人が飢餓の危険に陥ることもないのである。 (「時代遅れの市場志向」:『経済の文明史』平野健一郎訳から抽出)。 |
以上のような論説の意味するところは、この世に生まれてきたベビーは、母や父の保護下で命を守り、その親たちもまた所属する共同体によって、暮らしを守られている、ということでしょう。
人間集団には、1人の人間の生存を保障する互酬制度(Reciprocity)が、原始社会から存在したのだ、という主張です。
同じような主張は、ロシアの政治思想家、P.A.クロポトキン(1842~1921)の「相互扶助=互恵制(mutual
aid)」にも見られます。 どこがどう違うのでしょうか。