ヨーロッパの農業後波の下降期には、これまで述べてきたような社会が展開されました。
その特徴をまとめてみると、次のように整理できます。
①下降の初期には、社会的な混乱の拡大によって、経済的には封建領主による荘園経営が解体され、社会的には従来の宗教や学問の権威が失墜して、中世的な世界観や社会秩序が崩壊しました。その結果、当時の世相には「鞭打ち苦行者」や「死の舞踏」といった集団的な“狂信”現象が発生しています。
②しかし、下降期が進んで、世の中が落ち着きを取り戻してくると、それまでの混乱を逆手にとって、ルネサンスという、新たな精神運動が生まれてきます。ルネサンスは文学、美術、建築などではじまりましたが、やがて近代的な合理的精神を生み出し、社会や経済へも広がり、次の波動を生み出す世界観へと発展していきます。
③下降期の停滞した社会の中で、活版印刷術、火薬、羅針盤などさまざまな新技術が育まれ、次の波動を担う、最も基礎的な条件を蓄積させています。
こうしてみると、人口波動の下降期とは、混乱から成熟へ、成熟から革新へ、波動の終焉から波動の萌芽へ、と社会や文化が動いていく時代ということができます。
2015年11月30日月曜日
2015年11月26日木曜日
死の文化からルネサンス=再生へ
ペストへの恐怖と混乱が進むにつれて、ヨーロッパの人々の間には、「鞭打ち苦行者」や「死の舞踏(ダンス・マカブル)」など、世の無常を嘆く終末思想が急速に広がる一方、現実生活を享楽する風潮も高まりました。
だが、そうした世相も百年戦争が終わる15世紀半ばころには、一応の落ちつきを取り戻し、政治的にも経済的にも新たな動きがはじまります。
農村では戦乱や疫病や飢饉で衰退していた農業生産が回復しはじめ、大都市では人口過剰が解消して生活水準が上昇してくると、享楽的な生活風潮ともあいまって、消費活動が活発になりました。
需要が拡大し生産も回復すると、商業活動が拡大し、その担い手として大商人が台頭してきます。彼らは経済力を武器にして発言力を強め、中世以来の貴族領主の権力を凌駕して、強力な君主による国家と経済の組織化をめざすようになります。
この動きが最も進んだのはイタリアでした。1434年にフィレンツェの権力を掌握した豪商、コジモ・デ・メディチは、積極的な外交手腕を発揮して、平和の維持に貢献するとともに、芸術や文化の支援者となって、15世紀中葉にルネサンス(再生、文芸復興)を開花させます。
ルネサンスは、文化の成熟によって、技術的にも次の時代を作りだす基盤、例えば活版印刷術、火薬、羅針盤などを生み出していきます。いずれも東洋に起源を持つものですが、この時代にヨーロッパに流入し、新たな技術として“再生”したのです。
こうして、14~15世紀に育まれたルネサンスの精神や新しい技術は、その後、ヨーロッパ中に広がり、政治的には17世紀のイギリス革命、18世紀のフランス革命を引き起こし、経済的には18世紀中葉からはじまる産業革命によって、農業後波の物量的制約を大きく突破し、次の工業現波を急上昇させていく原動力となっていきます。
だが、そうした世相も百年戦争が終わる15世紀半ばころには、一応の落ちつきを取り戻し、政治的にも経済的にも新たな動きがはじまります。
農村では戦乱や疫病や飢饉で衰退していた農業生産が回復しはじめ、大都市では人口過剰が解消して生活水準が上昇してくると、享楽的な生活風潮ともあいまって、消費活動が活発になりました。
需要が拡大し生産も回復すると、商業活動が拡大し、その担い手として大商人が台頭してきます。彼らは経済力を武器にして発言力を強め、中世以来の貴族領主の権力を凌駕して、強力な君主による国家と経済の組織化をめざすようになります。
この動きが最も進んだのはイタリアでした。1434年にフィレンツェの権力を掌握した豪商、コジモ・デ・メディチは、積極的な外交手腕を発揮して、平和の維持に貢献するとともに、芸術や文化の支援者となって、15世紀中葉にルネサンス(再生、文芸復興)を開花させます。
ルネサンスは、文化の成熟によって、技術的にも次の時代を作りだす基盤、例えば活版印刷術、火薬、羅針盤などを生み出していきます。いずれも東洋に起源を持つものですが、この時代にヨーロッパに流入し、新たな技術として“再生”したのです。
こうして、14~15世紀に育まれたルネサンスの精神や新しい技術は、その後、ヨーロッパ中に広がり、政治的には17世紀のイギリス革命、18世紀のフランス革命を引き起こし、経済的には18世紀中葉からはじまる産業革命によって、農業後波の物量的制約を大きく突破し、次の工業現波を急上昇させていく原動力となっていきます。
2015年11月17日火曜日
中世の秋
当時のヨーロッパ社会は、オランダの文化史学者J.ホイジンガが「中世の秋」と名づけた時代です。
「あたかも夕暮れの空の深みに吸いこまれているかのようで(中略)、その空は血の色に赤く、どんよりと鉛色の雲が重苦しく、光はまがいでぎらぎらする」(『中世の秋』)ようなムードが漂っていました。
この200年をざっと振り返ってみると、14世紀前半からすでに混乱がはじまっていました。
ヨーロッパ人口の約40%を占めていたイギリス・フランス間では、領土と商業権の争奪をめぐって、1338年から百年戦争がはじまっていたのです。
イギリスでは、14世紀初頭から飢饉や疫病などをきっかけに、人口減少、地代の低下、農民の逃散、賃金・加工賃の騰貴などで、封建領主の農業経営が次第に困難になり、農奴の賦役を金納化したり、直営農地を農民に貸与する動きが進んでいました。そこへ百年戦争とペストの影響が及んだため、人口は14世紀中に40%も減少しました。
その結果、穀物の価格は低落し、逆に雇用労働の賃金は高騰しましたので、15世紀には「農業労働者の黄金時代」を迎えます。だが、この繁栄する農民階級に対して、当時の政府は百年戦争の戦費を負担させようと人頭税を課しましたから、ワット・タイラーの乱を挑発することになりました。
フランスでも、百年戦争や王国内部の貴族の争いで、14世紀中葉から農村の荒廃が著しく、多くの村落が数世代にわたって放棄され、耕地や葡萄畑が森林化していました。これにペストの流行が加わったため、領主直営地の多くは経営困難に陥り、折半地代や定量地代によって小作地へと転換され、15世紀半ばには中小規模の農民経営へ移行していきます。
しかし、地代の貨幣化は、当時繰り返された貨幣の悪鋳によって、かえって領主の収入を減少させ、彼らの立場を弱めることになりました。
ヨーロッパ人口の約11%を占めるイタリアでは、キリスト教会の混乱で教皇権が衰退していました。1309年には南フランスのアビニョンに教皇庁が移され、フランス王権の強い影響下におかれたため、「アビニョン捕囚」とよばれました。77年に教皇座がローマに帰還した後も、ローマとフランスで別々の教皇が選ばれたため、1378年から40年間、「教会の大分裂」が続きました。
1417年にようやく教皇の統一がなると、ミラノ、ベネチア、フィレンツェ、ナポリとともに5大勢力が分立しますが、一連の政治的な混乱によって、農業の衰退が目立ちはじめています。
同じくヨーロッパ人口の約11%を占めたイベリア半島でも、カタルーニァ、カスティーリア、ナヴィラなどの地方では、開墾の限界化と農業技術の停滞で、農業生産の衰退、農村人口の都市への移動、人口の減少が進み、14世紀末から15世紀後半にかけて、領主の収入が低下し、各地で農民が蜂起した結果、農奴制は廃止されています。
以上のように中世的な農業生産の限界化は、経済構造や政治構造を大きく変えました。経済構造では、農村を荒廃させ、農業の生産を低下させましたが、それ以上に需要を縮小させ、穀物価格を下落させていきます。
逆に都市では、手工業製品価格が穀物価格に対して相対的に上昇したため、商業が活況を呈します。資本を蓄積した商人の手で、鉱山の開発や金属・繊維工業などの技術革新を進め、都市経済を繁栄に向かわせていきます。
また政治構造では、権力の復権をめざす封建領主に対抗して、農民層の多くがフランスのジャックリーの乱、イギリスのワット・タイラーの乱、南ドイツのアペンツェル戦争などで、積極的に闘争を挑むようになります。こうした新秩序の再編は、15世紀後半に経済が回復してくるとともに、その姿をいっそう明確にしていきます。
「あたかも夕暮れの空の深みに吸いこまれているかのようで(中略)、その空は血の色に赤く、どんよりと鉛色の雲が重苦しく、光はまがいでぎらぎらする」(『中世の秋』)ようなムードが漂っていました。
この200年をざっと振り返ってみると、14世紀前半からすでに混乱がはじまっていました。
ヨーロッパ人口の約40%を占めていたイギリス・フランス間では、領土と商業権の争奪をめぐって、1338年から百年戦争がはじまっていたのです。
イギリスでは、14世紀初頭から飢饉や疫病などをきっかけに、人口減少、地代の低下、農民の逃散、賃金・加工賃の騰貴などで、封建領主の農業経営が次第に困難になり、農奴の賦役を金納化したり、直営農地を農民に貸与する動きが進んでいました。そこへ百年戦争とペストの影響が及んだため、人口は14世紀中に40%も減少しました。
その結果、穀物の価格は低落し、逆に雇用労働の賃金は高騰しましたので、15世紀には「農業労働者の黄金時代」を迎えます。だが、この繁栄する農民階級に対して、当時の政府は百年戦争の戦費を負担させようと人頭税を課しましたから、ワット・タイラーの乱を挑発することになりました。
フランスでも、百年戦争や王国内部の貴族の争いで、14世紀中葉から農村の荒廃が著しく、多くの村落が数世代にわたって放棄され、耕地や葡萄畑が森林化していました。これにペストの流行が加わったため、領主直営地の多くは経営困難に陥り、折半地代や定量地代によって小作地へと転換され、15世紀半ばには中小規模の農民経営へ移行していきます。
しかし、地代の貨幣化は、当時繰り返された貨幣の悪鋳によって、かえって領主の収入を減少させ、彼らの立場を弱めることになりました。
ヨーロッパ人口の約11%を占めるイタリアでは、キリスト教会の混乱で教皇権が衰退していました。1309年には南フランスのアビニョンに教皇庁が移され、フランス王権の強い影響下におかれたため、「アビニョン捕囚」とよばれました。77年に教皇座がローマに帰還した後も、ローマとフランスで別々の教皇が選ばれたため、1378年から40年間、「教会の大分裂」が続きました。
1417年にようやく教皇の統一がなると、ミラノ、ベネチア、フィレンツェ、ナポリとともに5大勢力が分立しますが、一連の政治的な混乱によって、農業の衰退が目立ちはじめています。
同じくヨーロッパ人口の約11%を占めたイベリア半島でも、カタルーニァ、カスティーリア、ナヴィラなどの地方では、開墾の限界化と農業技術の停滞で、農業生産の衰退、農村人口の都市への移動、人口の減少が進み、14世紀末から15世紀後半にかけて、領主の収入が低下し、各地で農民が蜂起した結果、農奴制は廃止されています。
以上のように中世的な農業生産の限界化は、経済構造や政治構造を大きく変えました。経済構造では、農村を荒廃させ、農業の生産を低下させましたが、それ以上に需要を縮小させ、穀物価格を下落させていきます。
逆に都市では、手工業製品価格が穀物価格に対して相対的に上昇したため、商業が活況を呈します。資本を蓄積した商人の手で、鉱山の開発や金属・繊維工業などの技術革新を進め、都市経済を繁栄に向かわせていきます。
また政治構造では、権力の復権をめざす封建領主に対抗して、農民層の多くがフランスのジャックリーの乱、イギリスのワット・タイラーの乱、南ドイツのアペンツェル戦争などで、積極的に闘争を挑むようになります。こうした新秩序の再編は、15世紀後半に経済が回復してくるとともに、その姿をいっそう明確にしていきます。
2015年11月9日月曜日
中世ヨーロッパ・・・人口減少の原因はペスト?
とりわけ13世紀には十字軍が東方へ、蒙古が西方へと進んでいたため、東西を結ぶシルクロードに乗って、次第に西へと伝播していきました。
1347年、コンスタンティノープルに侵入すると、翌48年、ジェノヴァの商船により地中海の貿易路をそのまま辿って、クリミア半島のカッファからイタリア、フランスに上陸し、瞬く間にヨーロッパ内陸へ波及しました。
以後3年余の間に全ヨーロッパを席巻し、当時の死者は3人に1人に達しました。
ペストはその後も、1350年代、65年前後、80年代前半、95年前後と、ほぼ10年間隔で流行を繰り返しました。そのため、ヨーロッパ全体では100年間に約2000万人が死亡し、14世紀末までに死亡率が出生率を上回った状態が続きました。
このように書くと、ヨーロッパの農業後波は、ペストによって下降期に向かったようにみえますが、それだけではありません。その要因はあくまでも人口容量の飽和化でした。
つまり、ペストが大流行した背景には、
①14世紀前半の農業環境の悪化とそれに伴う栄養状態や衛生状態の混乱がありました。ペストによる人口減少は、それ以前からの人口減少傾向を加速したものにすぎなかったのです。
②ペストの伝染ルートは商業による国際貿易の拡大によって生まれたもので、また爆発的な流行を生んだのも、商業都市の成立で人口密度の高い町が成立していたからです。その意味で農業後波の農業技術や経済システムが辿りついた、必然的な結果といえるものでした。
こうして、農業後波の人口は16世紀初頭まで停滞していきます。この200年間の社会とは一体どんなものだったのでしょう。
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